お話大会(H記)

 9月24日サンタクルス州の記念品でした。中高生がミニカーニバルを開いて踊りを披露してくれました。男女ペアの踊りでは、男性は強さやたくましさを強調し女性をかばう役に徹します。小さい時からフェミニストとして育てられているようです。

 こちらの学校では、どっさり宿題が出され上級生になるに従って親が手伝わないと間に合わないそうです。宿題をしていかないと減点になり落第につながるとのこと。授業が半日しかないボリビアの子どもも頑張っているのです。
 勿論、日系の子どもも頑張っていますよ。スポーツ・イベントが多い中で、9月から10月にかけて開かれる「お話大会」は子ども達の作文力や発表力を高めてくれる大事な行事です。学校によって違いますが、サンタ校以外では校内大会があり全員が作文を書きます。中でもオキナワ校は全員が発表するので、各担任の熱の入れようは相当なものです。私も、77名全員の作文に目を通してから審査に臨みました。
<保護者をはじめたくさんの人たちの前で発表します>

 審査は、内容・表現・態度の3観点でなされます。態度にはあまり差がありませんが、表現で一番気になるのはアクセントです。サンファン移住地へは長崎を中心に日本全国から、オキナワ移住地へは沖縄の人が移住したので、一世の言葉やアクセントがそのまま孫世代にも受け継がれているのです。方言に加えてスペイン語が混ざった言葉を「コロニア語」と呼んでいます。日本へ行った子どもが「君の言葉は日本語じゃないよ。」と言われて落ち込んだという話は枚挙にいとまがありません。私はアクセントの矯正について先生方に強くお願いしていますが、「アクセントを直すのは難しいです。」と退けられ、なかなか聴解テープを使ってもらえません。
 <聴く子どもたちも真剣です>

 発表の良し悪しを決めるのは、何と言っても基となる作文にあります。感心するほど素直に自分の体験を綴り、聞く人をうならせる内容や、現在ボリビアが抱える課題についてどう解決して行ったらいいのか堂々と自分の考えを述べたものもあります。上級生になると、原稿用紙に2.5〜3枚程度書くので覚えることも大変でしょうが、どの子もなめらかに発表します。
 中学生になると内容の濃い立派な文が書けます。次に良かった作文を紹介しましょう。
「コロニアオキナワの歴史」
                    ヌエバエスペランサ校 屋良さやか
 私は、最近、コロニアオキナワの歴史について興味をもっています。それは新しくいらっしゃった比嘉先生が、「いっしょにコロニアオキナワの歴史を調べてみませんか。」と呼びかけて下さったからです。実は3年前に、ヌエバ校のみんなでうるま移住地へ行ったことがあります。その時、うるま移住地を経験された一世の方々のお話を聞く機会がありました。その時のことを思い出し、もっと詳しく調べてみようと思ったのです。
 昔、日本で戦争があって、1954年、269名の沖縄県の方々がボリビアへ移民してきました。その時、ボリビアに行きたい人がたくさんいて、選抜をしたそうです。資料館で調べてみると、競争率が10倍だったそうです。そのことを知って、どうして、こんなに遠いボリビアまで来ようと思ったのか、不思議に思いました。それで、地域のおじさんたちに聞いてみました。
 そうすると、第二次世界大戦が関係あることを知りました。その時代、日本はアメリカや中国、イギリス、オーストラリアなど世界中の国々と戦争をしていたそうです。その時に、日本で唯一、アメリカ軍が上陸して住民が戦争に巻き込まれた場所があります。それは、今の沖縄県です。おじさんたちの話によると、戦争が終わった時には、めちゃくちゃになっていたそうです。食べるものも無く、住む場所も無く、たいへんな時代だったそうです。この沖縄戦で20万人の方々が亡くなったそうですが、生き残った人たちも、とても苦しい生活を送っていたことがわかりました。それで一人のおじさんはこうおっしゃっていました。
 「おじさんのお父さんたちはね。戦争は終ったけど、そこら中にアメリカ軍が残っていて、また戦争が来るかもしれない、と思って、それがいやだったんだよ。ちょうどその時、ボリビア行きの募集があって、申し込んだそうだよ。」
 別のおじさんは、こういう話をして下さいました。
 「その当時、50町ぼの畑をもらえるって聞いたら、みんなびっくりして、夢と希望を持って行きたがったわけさー。」
 そういう話を聞いて、私はどうして沖縄の人がボリビアに来たか、意味がわかってきました。
 最初の移民は、船で1ヶ月、列車で1ヶ月かけて、ボリビアまで来たそうです。ボリビアに初めて着いた時、みんなびっくりしたそうです。なぜかというと、見渡す限りジャングルだったからです。でもみんなで協力し合ってジャングルを切り開いたそうです。そして、その土地をうるま移住地と名付けたのです。
 そこで一番大変だったのは、うるま病です。この病気は原因不明の病気で、発病した人は3日目には亡くなったそうです。でも中には、3日目を過ぎても生きぬいた人もいたそうです。私は資料館で、うるま病で亡くなった人が15名いたことを知りました。その中には1歳の赤ちゃんや10歳の子どもも含まれています。
 私はとても悲しい気持ちになりました。戦争でたくさんの人が亡くなって、生き延びた人も悲しみと苦しみの生活をしていたこと。そして、ボリビアに夢と希望をもってやってきたら、原因不明の病気で家族が死んでいったこと、そのことを知って、とても悲しいです。
 それから50年あまりたって、今のコロニアオキナワはとても平和で幸せに暮らしています。私も、楽しい家族がいて、おもしろい友だちがいっぱいいて、好きなテレビを見て、毎日いろいろな勉強をしています。こうして考えてみると、私たちがここで幸せに暮らしているのも、最初にここに来た人たちが、ジャングルを切り開き、努力して下さったおかげだと思います。これから、もっともっと勉強して、このコロニアオキナワを守っていけるようがんばっていきたいと思います。 

 さやかさんの様に、どの子もコロニアの歴史をしっかり学んで、一世の気持ちを大切にしながら日本語も継承していって欲しいと願わずにはいられません。
 <25名の参加者と来賓>