友遠方より来る(記H)

 5月28日(日)に40年来の友人Nさんが奥さんのグレーテさんと息子さんのヨナタン君を連れてコペンハーゲンから3年ぶりに高崎へ帰ってきました。今回の訪問目的は、82歳になる彼のお母さんの健康上の問題と週4回通っている老人ホームでのトラブル解決策についてでした。
 Nさんとは1968年4月14日にイスラエルキブツ・カブリに渡って翌年4月11日までの1年間、同じ釜の飯を食べた仲間です。キブツ協会(手塚さんという会長の死去に伴い、この会は消滅しました。)とイスラエル大使館の後押しで、私たち10代から20代の若者22名は4月6日横浜港からソ連経由でルーマニアブルガリア、トルコを通ってテルアビブ空港へ飛んだのです。イスラエル出発に先立ち、三重県にあるヤマギシズム研鑽学校で3週研修した時に、Nさんが私と同郷であることを知り驚きました。その頃、私たちは二人とも東京暮らしでした。私は大学を卒業して2年目、F高校で楽しく数学を教えておりました。彼はN大学で栄養学を勉強中でした。
 その頃の日本は、まだまだ経済力も十分でなく1ドル360円の時代でした。ですから、親は外国に居るわが子に送金も許されず、帰りの航空券しか送れなかったのです。国際電話も高く、ボランティアの身にある私はその1年間1度も家族に電話をかけられませんでした。航空書簡で連絡を取り合うのが唯一の手段でした。
 キブツ研修を終えた私は、NさんKさんと一緒にアテネからイタリアのトリエステまでヒッチハイクで旅をしました。今回グレーテさんたちの訪問にあたり、何十年ぶりに古いアルバムを開けて37年前の旅の思い出に浸ることができました。聖書に出てくる古い町テサロニケでは、調度イースターにぶつかり全てが閉まっていたこと、交通・店・銀行など私たち旅人が必要とするものが利用不可能だったのです。誰もギリシャ語はできないし...私の拙い英語で「若い人なら英語を勉強しているだろう」と考え、通りがかりの10代の女の子に話しかけ、互いの片言の英語でどうにかホテルを紹介してもらいました。その子に誘われるまま、その子の家へお邪魔し豚の丸焼きをご馳走になりました。ハプニングが生んだ忘れられない思い出です。
 貧しくでも落ち着いたユーゴスラビアの歴史ある町々を通ってイタリアへ足を踏み入れた途端、町の色や人々の生活の様子、食事が随分違っていました。イタリアは太陽の国という実感でした。北欧の国をを目指して旅を続ける2人と別れて、私はスイスのバーゼルに住む友人を頼りにドイツ語の勉強の道を歩んでいったのです。

<歴史が好きなヨナタン君を連れて八幡塚古墳へ>