オキナワ豊年祭
オキナワ移住地は、戦後の荒廃した沖縄の県民を救済する目的として1954年に始まったボリビア移民により作られた。最初の入植地では、水害に遭ったり原因不明の伝染病が発生したりした為、2度も入植地を移動しなければならず3度目に落ち着いた場所が現在のコロニアである。今年で移民52周年を迎える。
現在は、第一から第三まで約20キロずつ離れたところにある3拠点で構成されている。現在は第一から第三までそれぞれ、日系人が508人、241人、141人が居住している。(2003年現在) 日系人に労力を提供しているボリビア人は、ゆうにこの10倍はいると思われる。
このオキナワ移住地で、10年程前から「豊年祭」と呼ばれる祭りが開かれるようになった。われわれは、オキナワ第1日ボ学校の視察をに合わせて豊年祭に参加することにした。
8月12日、豊年祭のはじまる前に、移住地でなくなった方々を偲ぶ慰霊祭が午後2時より執り行われ、これにも参列した。参列者は、お年よりだけで青年や子どもの参列がなく歴史を伝えるため次回からは、子どもたちの代表も参列するほうがよいとの意見が出されていた。
豊年祭は、午後3時半頃からはじまった。
プログラムは、
・ 模範空手の演技
・ ボリビア各地の舞踊
・ 沖縄エイサー踊り
・ 花火
と盛り沢山でこれらが夕暮れまで続けられ、最後のエイサー踊りの時は祭りのクライマックスを迎え、踊り手と観客が一体となって盛り上がり、まさにボリビア人と日系人の融合の姿が見出された。そして、最後には両国の花火ほどではないが、花火も打ち上げられた。(午後7時頃)
<沖縄エイサー踊り>
日系人による、焼きそば、たこ焼き、団子、Tシャツの販売から、ボリビア人の露天商、移動遊戯場がたくさん並び、エイサー踊りが終わったあとも延々と明け方の3時頃まで騒ぎが続いていた。もっとも日系人のほとんどは10時頃には引き上げ、最後まで騒いでいたのはボリビア人であったが。
<余談>
この豊年祭では、前夜美人コンテストが行われているが、日系人はコンテストに参加しないとのことである。水着審査があるのでどうも、1世・2世の父親が許さないといわれている。ちなみに今年のミスオキナワも健康美のボリビアの女性であった。
前回紹介したサンファン祭と違って、沖縄には盆踊りの習慣がない為、ここでは盆踊りは行われず、代わりにエイサーが踊られる。