サンタクルスあちこち「12月24日、25日、1月2日、3日、4日」(記H)

12月24日(日)子どもたち来ボリビア
 マイアミからの飛行機が予定より15分遅れて9時にVIRVIR空港へ到着してから、15分後に子どもたちの姿が出口より見えた時には「無事到着してよかった」と安堵しました。サンタさんがくれた大きなプレゼントに感謝しながらミクロバスで我が家へ。今回は、一旅行者としてでなく生活者の目と足でボリビアを堪能してもらおうと企画した旅にしました。ですから、しょっぱなからタクシーでなく庶民の足ミクロを使ったのです。(料金Bs5=¥70)
 食事後、ゆっくり休憩をとった面々をサンタの中心にあるカテドラルへ案内しました。カテドラルが位置する中央公園はイルミネーションが金や赤に彩られ派手さはないものの、いつもの教会と雰囲気が違っていました。公園では、ケーニャやチャランゴの演奏に合わせて踊る人もいて「さすがボリビア、クリスマスでもフォルクローレだ」と感心しました。
<公園での演奏 ちょっと暗くてすみません>

12月25日(月)サンタ市内見学
 昨夜の大雨にドライブの一日が心配されましたが、出迎えの専用車が到着する9時には雨もすっかり上がってやれやれ。サンタの南へ車で40分行った郊外にある砂丘見学を一番に組みました。砂丘へは四駆でないと深いわだちや溝がそこかしこにあって行けません。意外と知られていないのか、隊員の人たちからの情報も無いままに行きましたが、皆さんへお勧めの場所です。突然、砂丘が視界に迫って来た時の感動は「自然の素晴らしさに脱帽」です。どこまでも続く砂丘は、南国の大きな青空に生えて自然の神秘さえ感じました。思わず「みんな素足になって歩こう」とサンダルを脱いで歩き始めました。足の裏に白い砂がぴったりと馴染み、久しぶりに童心に戻って「月の砂漠を」口ずさんでいました。
サンタクルス砂丘


 旅行社のお勧めによりBOTANIKA(市営植物園)へ行きましたが、うっそうとした樹木ばかりで正直言ってこれといって見るべきものはありませんでした。少し歩いてみようかと皆で車を降りた途端に蚊の大群に襲われ3分くらいの短い時間に20箇所くらい食われました。這這の体で車に引き返すと、車の中にも30匹くらいの蚊の大群が先客として入り込み、サンタへの帰り道、それぞれが蚊をつぶすことに大忙しでした。皆が痒がっているのを「そんなに痒いの」と眺めていた私でしたが、翌日たまらない痒さが全身を襲いBCGをした後のように腕や足など膨れてしまいました。恐ろしいのは南国の蚊です。年をとると、疲れと同様に蚊の後遺症も翌日でるのですね。後で、旅行社から聞いた話では、植物園には解説員がいて3kmくらい歩きながら説明を聞くと良く分かるとの話。でも、25日は休日の為、誰も説明してくれる人もなく、大きな木を名前も分からず見ただけでした。
 一度、家へもどってサンタの銀座通りにあるCAPRIで本格的ピザやスパゲッテイの昼食後、以前訪れたことのあるGUENBEという蝶々の園へ行きました。私たちが感動したように、子どもたちは35mの塔の上から見るジャングルの眺望に驚いてもいました。蝶々園では、前回より多くの種類がひらひらと羽をひろげ自然の状態に保たれている園を舞っていました。「水着を持ってくればよかったね。」と娘と言葉を交わすほど気温が上昇してきました。さっきどしゃぶりの雨が降ったかと思う間もなく、青空になり31度から35度になるのがサンタの夏の気候です。最後に、お客3人は乗馬を楽しんで家路につきました。
<GUENBEの蝶 もっと立派なのもいたが撮影に失敗>

 25日はクリスマス。サンタへ来てから私が通っている日本人牧師・三森牧師の教会の祝会に参加しました。子どもたちによる聖歌が10曲くらい披露された後、聖劇「放蕩息子」が演じられました。主役は青年弁護士、いつも冗談ばかり言って私たちを笑わせている人です。いつ練習したのか牧師に尋ねると「皆忙しい方たちですので、一回練習しただけです。こちらの人は本番につよく、結構アドリブでやってしまうんですよ。」とのこと。小学時代から、詩の暗誦とか演劇発表とかよくさせられるためか、このように人前で発表しても堂々と役になりきり気後れせずに聴衆を引き込む演技ができるのでしょうか。改めて、日本人の永遠の課題は表現力にあると考えさせられました。
<聖劇「放蕩息子」の出演者>

<たくさんのご馳走>

1月3日(水)オキナワ移住地訪問
 1週間にわたる長旅それもかなりの強行軍の旅の疲れを、ゆっくり癒してから移住地を訪問しました。
1月3日は日本と同様にお三元日は日系社会では全て閉まるところ、無理にお願いして資料館、学校、宿舎、成功者のお宅訪問と欲張って日程を組みました。どの人も休日にも関わらず、快く申し出を受け入れてくださり、子どもたちにとっては移住地を肌で感じ理解する良い機会になりました。
 歴史資料館には移住当初から現在にいたるまでの写真や生活道具、資料など約2,000点が展示されており、初めて、1945年の夏に沖縄から移住した人々がここに足を踏み入れ、想像を絶するような困難と戦いながら、現在の安定した移住地を作り上げた歴史が一目で分かる様に展示されている。子どもたちは、はたして先人の汗と涙の歴史を理解してくれたでしょうか。
<1960年頃の校舎 オキナワ資料館資料より>
 
 休日で静かなはずの学校が、なんと開いていました。1年生の補習授業でボリビア人の先生が算数2ケタの足し算を教えていました。高校で数学を教えている娘は、思わず「日本人は遅れちゃうよ」と叫んでいました。それは休日に子どもたちが 勉強していたばかりでなく、2ケタまで計算している1年生に感心していたのです。今、日本のどこの先生が1月3日から小学校1年生に「学校へ来なさい。勉強します。」と言うでしょうか。こちらへ来てから、日本の教育のいけない所が良く見えるようになってきたこの頃です。2004年の教育改定により更に薄くなった教科書で学習している子どもたち、本当は教育の国際化にも太刀打ちしていかなければならないはずですのに学力低下は目に見えています。その上、国語教育をおろそかにして小学校から英語教育をと叫んでいる学者先生。まったく持って、おかしな日本です。

 Hさんのお父様は第1次移民。那覇港から大型客船で45日かけてブラジルのサントス港へ到着。列車でブラジルを横断してサンタクルスまで。ジャングルの大木を斧で切り倒して米を作り、それまで5km離れたグランデ河まで水くみに行っていたものを打ち込み井戸を完成させて婦人たちの労働を軽減したり、モタクの学校を建てたり一つ一つ課題を解決してきた人。現在は、週1回、高学年の子どもたちに三線を教えて悠悠自適の毎日を送っておられます。その穏やかな表情はこれまでの苦労をひとつも感じさせません。
 また、息子さんのHさんは製粉工場の社長として忙しい毎日を送る傍ら、青々と茂った大豆を始め米やトウモロコシ等の大きな畑の持ち主でもあります。Wさんが以前ブログに書いたように不耕起栽培で成功している人です。自分の仕事に対して研究熱心で、よくブラジルやアルゼンチンに視察に行って、ボリビアにあった農法を調査しています。Hさんは「1990年から4年連続洪水に見舞われ収穫直前の作物が壊滅状態になってしまったこと。借金をして、土手を積み上げ防風林を植えながら現在に至ったこと。その時は死に物狂いでやったこと。」など淡々と話してくれました。
<コロニアオキナワの大豆畑にて 奥行き2Km>

 農場見学はトラックの荷台に乗って行きました。その時、私は、1968年イスラエルキブツで生活していた若かった頃のことを昨日のように思い出していました。キブツでは、朝6時ハダルハオヘルという共同食堂前からトラックが出発して約20分のオレンジ畑まで運んでもらいました。粗末なベンチにも関わらず、なぜかあの頃は毎日が仲間とピクニックへ行くようで楽しかったものです。Hさんの丁寧な説明付きで農場を見学した後、ボリビアとは思えない清潔で広くモダンなお家に案内してもらいました。可愛い犬や小鳥たちと遊んだり、奥様手作りの昆布巻きや沖縄のお餅の揚げたのをいただいて皆正月気分になりました。