世界遺産コロニア・デル・サクラメントへ(記H)

1月3日(木)ウルグアイ
 Y青年の「夕日がきれいですよ」の一言で、ウルグァイのサクラメントへ行くことを計画。
ブエノスの対岸にあるサクラメントへは、普通船だと3時間のところ高速フェリーだと1時間で行ける。12月17日に買っておいた切符を片手に「一時間前には船着場へ行ってください」と聞いていたので、8時には船の乗り場へ行く。乗り場は人、人、人の山。当日券は買えないほどごった返していた。そして、9時発予定の便が、いつの間にか無くなり電光掲示板には「10:00、COLONIA」と書かれていた。まあ、ここは南米腹を立てずにいくしかない。
<500人乗りくらいの高速船の船内> 

 1680年にポルトガル人が開拓し、ポルトガルの貿易港として発展し、1777年にスペインに統治され複雑な歴史をもつ町である。地図で調べ、いくら小さな町でも徒歩で散策するのはきついなと考えていたら、下船と同時に自転車を発見。それも同じ色、形の自転車を。それに乗って誰かを船着場まで迎えにきたであろう男性に「貸し自転車があるのですか」と尋ねたら「あるよ。セントロへ行けば何件か店を連ねているよ」との答え。よし、今日一日はサイクリングで町見物をしゃれ込もうと決定する。
セントロへ行かない内に貸し自転車屋を発見。おじさんは、気さくに「どれでもお好きなのに乗ってください」と言い、Wさんのサドルを下げてくれた。ノートに名前や住所を記入するでもなく、パスポートを見せるわけでもなく、たったの10$(350円)で貸してくれた。
<町見学は自転車で>

ところが、後で自転車を借りた事を後悔することになった。旧市街地は歴史がある、ということは道が石畳でできていて歴史を感じさせているのだ。したがって、私達はゴツゴツした石畳をタイヤを弾ませながら走ることになった。坂道の多い所を登ったり降りたり、頭まで振動させながらサイクリングを楽しんだ。
灯台からは町が一望できる>

 ざっと町を一周してから、昼食タイムにした。ガイドブックに載っていた美味しいイタリアンの店を探すが、近所の人も知らず、番地を頼りに探してもそれらしい店はなく、自分の感と空腹具合で店を決めた。外でイタリア人ぽい店主が肉を焼いていた事、海鮮があるというので、海が眺められる店内に入った。ビールや生ジュースを飲みながら料理を待っていたら、15分くらいで料理が運ばれてきた。スパゲッテイを注文する時に「上にかけるものは何がよろしいですか」と聞かれたので、Wさんは「分からないけど、これでいいや」とメニューを指していた。
 後で分かったことは、それはミートソースだったらしい。私がお願いした海鮮は銀の器の中にムール貝が殻をむかれ煮てあるものだった。2人とも、それが私の注文品と気がつかずに「私の海鮮は、まだ来ない、まだかしら」と30分くらい待っていた。Wさんは、とっくに2皿平らげ「料理はまだなのか聞いてごらん」と言う。ボーイさんに聞いてから大爆笑。なんと、あの銀の皿の得体の知れないものは私が注文した品と判明。もう、次を注文する気力も薄れて、残りのサラダとパンをほおばりお腹を満たした。
<海風が通り抜ける店は良かったのですが>

小さな旧市街地に7つも博物館があるというので、全部訪れようとしたら、市立博物館で「今日は、3館が閉まっています。明日行ってください」と言われる。おかしかった事は、そこで博物館の通し切符を売っているのだが、1館でも7館全部訪れても入場料は変わらないということだった。
まず、ポルトガル博物館から見始める。博物館の建物は1720年の建築だそうで各部屋が小さく、石が敷き詰められていた。館内には、兜やサーベルなどの武器や陶器、テーブルや椅子、タピスリーなどの家具など、今そこの誰かが住んでいるように展示されていた。
<魚の上に子供の魚が乗っている器>

<古文書がズラーと並んでいた地域資料館>

植民地時代の暮らしが分かるように民家のベッドや鏡、台所にはなべ釜を始め、かまどや流しまで展示されていて興味深かった。電気やエレクトロニクスの時代になっても、人間の生活は基本的には200年前の生活とあまり違わないことを実感した。
<ナカレリョの家の前で>

4つの博物館は全てセントロのマヨール広場前にあり、歩いて回れる範囲にある。昔は軍事演習場として使われた場所だそうで、広場の外れには城門と城壁がそそり立っている。古びた大砲が飾られ、ポルトガルとスペインの植民地争奪戦を物語っていた。
 アルテサーニアというみやげ物やの一角で、可愛らしい手彫りのトゥカーンとオウムを見つけて、嬉しくなった。Wさんは、光り輝かない水晶の塊を買って「こういう物が好きなんだよ」とご満悦の態でした。
<当時はこんな馬車で移動したのでしょうか>