帰国モードになってきました(記H)

 ボランティアには1年目、2年目の終了時に、JICA事務所長や所員の前で活動報告をしなければならない義務があります。通例は帰国1週間前なのですが、私の場合は最後まで仕事が詰まっているため5月27日になりました。標高3,600mのラパスへ上がるということは、高山病との戦いでもあります。でも、今回は緊張していたためか、頭痛や胸の動悸が激しくなる事も無くラパス滞在を楽しむことができました。
 私は、村落開発普及員のM青年と2名だけの発表でした。発表が15分、質疑応答15分で2人ともパワー・ポイントを使っての発表でした。あらためてこの2年間の活動を振り返った時、出発前に配属先からいただいた要望の何倍ものことがらを指導、助言してきたなと再確認しました。このことは、前向きな教師には感謝されたでしょうが、何もしたくない、従来どおりでよいという教師には「厳しい」「煙たい」と思われた事でしょう。でも、先生方の指導力をアップさせることが即、子ども達の日本語力を高める事につながるので手を抜く事は許されなかったのです。発表後は「課題として残された事は何ですか」「以前、日本からの先生が『日本の子供が失ってしまったものが移住地の子どもにはある』言っていましたが、その意味はなんでしょうか」「現職教員にとって最適な仕事はなんでしょうか」などの質問が出て、私なりの意見を述べさせてもらいました。
<メガネをかけて報告>

 発表後は、帰国手続きに関するオリエンテーションの後、大使との懇談会がありました。所長さんの車で、カラコトという南(空気が濃い場所を意味する)にある日本食レストランへ行きました。4月に着任された田中大使は大変気さくな方で、私達は遠慮なく歓談し楽しく食事をいただきました。また、料理は5品も出て、ごまあえに始まり天ぷらそばで終わるという今までにボリビアで食べた事のない美味しい日本食でした。Mさんは「もっと早く食べたかった。」と正直な感想を述べていました。そして彼女は、29日に日本へ出発予定なので「すぐに、日本食は食べられるよ。」とも。いずれにしても、お忙しい大使が、私達ボランティアを招待し労って下さったことは忘れられない思い出になりました。
<大使、事務所長さんたちと記念撮影>
 
 その夜は、ラパス校の主任で本業はフォルクローレ歌手の秋元広行さんが所属するANATAというグループのコンサートにお誘いを受け、「けんちゃん」という日本食堂へ行きました。その日が「母の日」だったため、食堂は母を招待したボリビア人の客で満席でした。私は、秋元さんが予約して下さった最上席で演奏を聴く事ができました。母の日を記念して、女性に捧げる歌を中心に演奏されました。今回「愛情と感動を与えてくれる世界中の女性に送る」というCDがANATAから発売されました。皆さん、是非お買い求めください。秋元さんの美しい高音の歌声にうっとりしますよ。
<6人の息もピッタリ合って>

 翌日の飛行機は14:00時発だったので、8:30発の市内観光バスに乗ることにしました。50Bsで約3時間、日本語のガイド付きです。Pza. Isabella Católicaを定刻より10分遅れで出発したバスは、目抜き通りのAv.ArceからAv.Montesまで走りサンフランシスコ教会、メルカード、サガルガナ通り、無名戦士のオベリスク中央銀行、副大統領執務室などを見学してキリキリというビュー・ポイントに行きました。ここでは、下車してラパスの町を一望でき、マッチ箱のような家々の間にそびえる高いビルにボリビアの首都であることを再確認しました。サンタでは、21階建ての裁判所が唯一高い建物なのですから。
<外観はお洒落な2階建てバス>

 帰りは、ムリリョ広場、ラパスにデパートがあることを知ったShopping NorteとLa Ganza、市役所,銀行街、サッカー場、競輪場、をバスの上から眺めて出発点はもどりました。時間がない方やラパスが初めての方にはお勧めのツアーです。町を一周する事によって、ラパスの様子や概要が分かりますし、方向性も知ることができます。
 案内ガイドによると、ラパスの人口は170万人で、アイマラケチュア、グァラニなど28部族の人々が住んでいるそうです。50%以上が現地人、22%が混血、20%がヨーロッパ系、日系人は1%にも満たないそうです。ボリビアの平均年収は1,200ドル、平均寿命は男子60歳、女子65歳で、女性は平均5人出産するそうです。このようにボリビアに足を一歩踏み入れると、様々な問題が山積していることが分かってきます。日本の援助が実を結んで、一日も早く、ボリビア人自身が自立の道を歩んで行ってくれたらと願わずにはいられません。
<1549年築サンフランシスコ教会>