群馬のルーツ(記W)
なぜ「上州」とか「群馬」とよぶの?
私も知らなかったが、「上毛新聞」という地方紙にこの由来が載っていたので紹介する。
古墳時代、古代国家の大和朝廷成立のころ、群馬県と栃木県のエリアが「毛野(けぬ、けの)国」と呼ばれていた。やがて、毛野国は上毛野国(こうずけのくに)(群馬県)と下毛野国(しもつけのくに)(栃木県)に分かれる。都を中心とする考えから都に近い所が「上」遠くはなれた所が「下」になったと推察される。
713(和銅6)年、諸国の郡と郷の名に、良い字を用いることを命じる「好字令」で、2字(なぜか2字が良い字らしい)にすることになった。上毛野国は、このころ野蛮という意味だった「毛」を取り「上野国(こうずけのくに)」とした。
また、呼称も変遷があり、平安時代以降は『国』ではなく『州』が使われ、上野国は一番最初の文字「上」と「州」を合わせて「一種のしゃれで上州と呼ぶようになった」という。
では、県名の「群馬」は何に由来するのか。
榛名山東南麓(旧群馬郡を含む高崎市の大半とその周辺)を治めていた上毛野氏の一族とされる豪族が5世紀後半、当時の雄略天皇に乗り物「輿」を献上したとき、「車持公(くるまもちのきみ)」の姓を与えられたため、この地域は、「車評(くるまのこおり)」と呼ばれた。先に紹介した「好字令」で、「車」を2字にすることになり、発音の近い「群馬」あてて書くようになり、読み方はそのまま「くるま」としていた。当時の貴重な財産である 「馬」の飼育、生産が盛んだったことからこの字が用いられたとみられる。「くるま」という読みは明治まで続けられていたという。
1871(明治4)年10月28日、廃藩置県で県内の藩をなくし、「群馬県」(第1次)として統合された。2年後に現在の埼玉県の一部と統合され「熊谷県」となったが、3年後の1876年に旧上野国の範囲での「群馬県」がスタートし、現在に至っている。
県の名前は県庁所在地にする例が多く、当初は当時県庁があった「高崎」を県名に使おうとしたが認められず、県中央の群馬郡の名を県名にしたという。
平安時代、群馬郡に「国府」(現在の県庁)が置かれていたことから「群馬」を使ったともいわれている。
我が家の住所は、高崎との合併前は、
群馬県群馬郡群馬町中泉 (今は、群馬県高崎市中泉町)
であった。これは、当然群馬県にある群馬郡と考えていたが、ちょっとニュアンスが違い、群馬郡がある群馬県が正解らしい。
群馬県は、古墳が沢山あることで知られているが、今知られているだけで「466」もあるとのこと。
下の写真は、我が家の近くの保渡田古墳群の中の八幡塚古墳である。これは保渡田で最初の古墳で被葬者は、車持氏族の首長とのこと。
<八幡塚古墳> 古墳の中に石棺が展示されている。
<車持神社> 群馬の名の由来になったとされる車持公を祭っていると伝えられる。